「誰のためのデザインか」シネイド・バーク

社会学

今回はイタリアのライターであり、教育家であるシネイド・バーク氏の「デザインがすべての人のためであるべき理由」というTedトークをご紹介します。

彼女は軟骨無形成症という障害を抱えています。

軟骨無形成症(軟骨異栄養症といわれることもあります)は、軟骨細胞の異常によって骨の形成が阻害され、手足の短縮を伴う低身長になるとともに、全身に多様な症状が起こり得る病気です。軟骨無形成症の代表的な症状は手足の短縮を伴う低身長で、成人男性の平均身長は130cm前後、女性では124cm前後にしかなりません。(参考:つくしの会

そんな彼女が、デザインとは何かについて語ります。

アクセシビリティの欠如が、人を障碍者にする

彼女は空港で、アクセシビリティの欠如のせいで、本来であれば乗る必要のなかった車椅子に乗ることになりました。

昨日の朝 私はアイルランドを発ち、ダブリンからニューヨークに、ひとり旅で来ました。でも空港や旅客機やターミナルのデザインでは身長105.5センチの人が自力で旅するのは難しいんです。105.5センチはアメリカでは3フィート半です。空港では。航空会社のスタッフが押す車椅子での移動になりました。私は車椅子を使う必要はありません。でも空港のデザインとアクセシビリティの欠如で私は車椅子で移動するしかないのです。

デザインのせいで、自主性と独立性が奪われる

本来であれば、普通に生活できるものの、アクセシビリティの低いデザインのせいで、個人の自主性と独立性が失われるのです。

機内持ち込み荷物を足の間に置いて私は車椅子に乗ってセキュリティとプレクリアランス を通り搭乗口に到着しました。空港では私はアクセシビリティ・サービスを利用します。殆どの空港ターミナルが私のような。利用者を念頭に設計されていませんから。例えば、セキュリティでは私の腕力では機内持ち込み荷物を床からコンベヤーに載せることができません。コンベヤーが私の目の高さなのです。安全管理上の理由から職員に手伝ってもらったり代理でやってもらう訳にも行きません。デザインのせいで自主性と独立性が妨げられます。

物理的な社会環境が、障碍であることを思い出させる

彼女は、自分自身が障害であることは普段忘れられています。しかし、自分自身が障害であると思い起こさせるのは、病気ではなく、物理的な環境や社会なのです。

でもこの身長で旅をするのは悪いことばかりでもありません。足元の広さはエコノミーでもビジネスクラス並みです (笑) 私は自分の背が低いことをよく忘れます。私にそのことを思い出させるものは物理的な環境や社会です。

公衆トイレを利用するのは耐え難い経験です。個室に入ってもドアロックに手が届きません。私は独創的でへこたれない人間ですから辺りを見回してひっくり返せるゴミ箱がないか探します。安全性はというと全然良くありません。衛生面はどうでしょうか? 全然ダメです。他の選択肢は もっとひどいんです うまくいかなければ スマホを使います。するとあと4〜6インチ高いところに手が届くのでiPhoneを使って押して鍵を閉めようと試みます。ジョナサン・アイブはiPhoneを設計した時こんな使い方を想定しなかったでしょう。でも役に立ちます。

アクセシビリティは、だれのためにあるか見過ごされている

そんな現状を見て、彼女はアクセスビリティがだれを見過ごしているかを考えるようになります。

代替案として知らない人に平謝りしながら個室のドアの外に立って見張りをして下さいと頼むんです。やってくれますよ。私はありがたく感じると同時にこの上ない屈辱感を覚え、手を洗わずにトイレを出たことを気づかれませんようにと祈ります。私は手指除菌剤を毎日持ち歩いています。シンクもソープディスペンサー、ドライヤーも鏡も全部私には届かないからです。アクセシブルなトイレは ちょっとした選択肢に見えます。そこだったらドアの鍵にもシンク、ソープディスペンサー ドライヤー、鏡にも手が届きます。それでも私はトイレを使うことができません。わざと便座を高く設計して車椅子を使う人が便座に移動しやすくなっているのです。これは素晴らしく必要なイノベーションです。でもデザインの世界で新しい企画や新案を 「アクセシブル」だと表現する時何を意味するでしょうか? 誰にとって 使いやすいのでしょうか? そして 誰のニーズが 見過ごされているのでしょうか?

私らしい服は、マジックテープのきらきら光る靴ではない

彼女は、衣類を購入するときにも、アクセシビリティが関係します。アクセシビリティの欠如によって、自分らしくいることさえも困難になるのです。

デザインは私が着たいと思う衣服にも影響します。私は私らしい服が欲しいと思います。でも。そんな服は子供服売り場にはありません。そして大抵女性服にはお直しをたくさんしなければなりません。成熟したプロフェッショナルで洗練された私を表現する靴が欲しいと思います。でも マジックテープつきの歩くと光るスニーカーを勧められます。歩くと光る靴は絶対に嫌とは言いません (笑)

デザインは、機能性と美しさを作り出すツールだけではない

多くの人は、「デザインは機能性と美しさを作り出すツール」だと考えていますが、デザインはすべての人に帰属感を与えるものと主張します。デザインが帰属感を与えるなら、だれのためのデザインかを忘れていてはいけないのです。

今の私の人となりを知っていただくために新しい視点を皆さんにお伝えしたいと思います。「デザインは機能性と美しさを創り出すツールにすぎない」というアイデアに 異議申し立てをいたします。デザインは 人々の生活に大きな影響を与えます。全ての人の生活にです。デザインを通して 私たちは世界への帰属感を覚えます。でも デザインを通じて 人の尊厳とその人の人権を守ることもできます。また デザインは自分たちのニーズが考慮されないグループの人々に弱みを背負わす可能性もあります。ですから今日私は皆さんに自分の認識を疑って欲しいのです。誰のためのデザインが忘れられているでしょうか? どうしたら その人たちの声や経験を 届けられるでしょうか? 次なるステップは? デザインは大きな特権である以上に それ以上に大きな責任です。皆さん 目をしっかり開いて下さい どうもありがとうございました (拍手)

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